「あいつは馬鹿だ」とか、「奴らは無能だ」といった言葉は、ネットをちょっと見渡せば、毎日必ず誰かがつぶやいているけれど、自分自身の価値に照らし合わせて、誰かを「馬鹿だ」と見切るのは、実はとても難しいことなのだと思う。
何かを決断する、リスクを取るためには、たいていの場合、何かを「見下す」必要がある。それはリスクそれ自体であったり、あるいは問題の大きさであったり、場合によっては、顧客や雇用主、人間であったりもする。
人を見下すのにはとてつもない勇気がいる。何かを見下すということは、その方向に対する防御を外してみせることに他ならない。防御を外した分だけ、その人は身軽に動けるようになって、そのリソースを他の方面に投じることが可能になって、結果として成功は近づくのだけれど、防御を外したその方向から攻撃されたら、もうひとたまりもなくやられてしまう。
不信任決議はグダグダで、どうしてこうまでもつれたのか、鳩山代表をだますだけなら簡単そうなのに、ぎりぎりのこのタイミングまで、どうしてそれが菅総理サイドに決断できなかったのかといえば、総理周辺の人たちが、「鳩山は馬鹿だ」ということを見切るのは、やはりとてつもなく難しく、また勇気が必要な決断だたのだ、ということなのだと思う。
奴は馬鹿だ、無能だ、と口汚く罵る人ほど、たいていの場合、内心はそう思ってない。
何か仮想された有能に照らし合わせて、何かを無能と断じることはたやすいけれど、それはあくまでも仮想であって、その判断は実体としての力を持てない。
状況に対して陰謀論を見いだす人は、陰謀の裏側に有能を仮想する。「奴は馬鹿だ」と見下す人もまた、自分の与する考えかたに、どこかで「有能な誰か」を仮想して、自信の根拠に自身の有能がないことのほうが多い。
「鳩は無能だ」なんて、もうテレビでは何年も前からそう言われていたけれど、それでもなお、鳩山代表周辺で、もっと昔から本人を見続けてきた人たちでも、「奴は馬鹿だ」ということを発見して、それに乗っかった判断を行ったのは、今回が初めてだった。
周囲の人ですらこれだけの時間がかかったものを、ましてや国を違えた人たちが「誰かの無能」を発見することなんて難しいのが当たり前で、国会がこれだけグダグダになった昨今においてもなお、恐らくは他の国では、「日本は本当に馬鹿なのか?」と、今でも自問して、それでも決断を下せていないのだろうと思う。